大判例

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渋谷簡易裁判所 昭和47年(ろ)665号 判決 1975年3月11日

主文

被告人等に対しいずれも刑を免除する。

理由

犯罪事実

被告人等は共謀の上、昭和四七年九月二七日未明、東京都世田谷区砧五丁目一番一号先から同五丁目七番一号先に至る道路上において、東京電力株式会社所有で、東電広告株式会社の管理する電柱六本(番号砧三〇二号乃至三〇七号)に、「全国学生の怒りの渦で文部省を包囲せよ」「全学連の旗の下に全国統一ストライキで決起しよう」「九・三〇全国学生統一行動」などと印刷したビラ一五枚を、みだりに貼り付けたものである。

証拠の標目≪省略≫

弁護人の主張に対する判断

一、本件ビラ貼り行為は憲法の保障する表現行為であるから、これにより刑責を負うべきでないと主張する。

被告人らが電柱に貼付した本件ビラの内容から考えると、このビラは憲法二一条の表現行為としてなされたものと認むべきである。

表現の自由はこれに先行する思想、信条の自由と表裏、両面をなすものであって、思想、信条は内的なもの、表現は外的なものということができる。表現は思想などの単なる発表ではなく、これを他に伝達することを目的とする対人的行為であるが、その伝達の方法は多種多様であって、表現行為者はその内から、より効果的なものを選ぶことゝなる。この場合、主観的に最良とするものが常に客観的に最良であるとは限らない。又伝達そのことからすれば効果的であっても、その方法の故に他人がその伝達を拒否し、同調をこばむ様なものは最良の方法とはいい得ないのである。伝達行為は常に他人と何らかの形で接触するのであるから、思想などの自由が絶対的に保障されているのと異り、他人との関係では相対的なもの、共存的な保障とならざるを得ないのである。従って、その自由は他人の生活の安全引いては社会秩序の維持の面から諸々の規制を受けざるを得ないことゝなる。

表現は自らの行為でなす場合と媒体による場合とがある。演説は前者の主たるものであり、文書、電波による場合は後者である。演説の場合はその自由は強い。しかし、その言葉が他人の名誉を損じ、或いは威怖せしめ、きく者をしてワイセツ感を抱かしめるなどのときは、その故に問責されることもあろうが、この場合にも表現自体を許さずとするものではないから、そのような言葉を用いずして自己の思想、信条を他人に伝達することは可能なことであって、表現行為を妨げられるにいたった責は行為者自らが負うべきである。

憲法は表現の自由を保障するが、媒体の利用についてはこれを保障しない。従って、行為者は自らの努力によってこれを確保し、利用しなければならぬ。文書、電波を媒体とする場合は複雑な関係となる。新聞、雑誌などのマスコミ機関は民間人の経営するところであり、個人の表現行為を受け入れるかどうかの自由はその手中にある。これらは特殊の人々には門戸を開くが一般人の表現を取り上げることは稀有なことであって、この場合、表現の自由は弱いものとなる。電波は公共性の故に国家機関の管理の下にあり、その商業性は新聞、雑誌以上に一般人の自由な利用を困難にしている。又通信による表現行為も相当な経済力のないものはこれを行い得ないことが実情である。このように、表現行為の媒体の利用を保障しない憲法下での表現は容易ではない。こうした谷間に生れたものがビラによる表現行為であり、これは庶民の生活の知恵ともいうべきものであろう。ビラ配布は人々に接する点で対人的効果があり、ビラ貼付は長期に亘り多数人に伝達し得るという利点があって、表現行為者にとっては千金の価値があろう。

尊い表現であっても他人はその伝達を拒否する自由がある。新聞、雑誌の閲読を拒み、電波のスイッチを切ったとしても非難し得ないし、ビラ配布の際にもこれを強いて受取らしめることはできないのである。ビラを貼付して他人に閲読せしめようとする場合にはその媒体が問題となる。憲法の保障するこの表現行為にも、その媒体の利用権を含まないことは、文書、電波による場合と等しいことで、媒体は表現行為としてのビラを貼付を忍受しなければならぬ理はない。ビラ貼付される媒体の所有者、管理者がこれに同調しないことは、それが表現行為に支障を来たすとしても、表現行為の妨害行為とはいえず、憲法上の問題とはなり得ないのであって、媒体の所有者、管理者は予め貼付することを禁じ、現実の貼付行為を拒み、事後にはこれを除去することの自由がある。或いは表現行為は憲法の保障する尊いものであるから国民はあとう限りこれに協力すべきであるとの見解もあろうが、思想、信条の自由が保障されていればこそ、これに反対する自由を尊重しなければならぬ。ビラの内容が信教、政治、思想に関する場合に、それが貼られていることによって、世人にその同調者、容認者と思われるのではあるまいかと思惟して、喜び或いは困惑し、時に憤ったとしても、これを許し難いとまではいい得ないであろう。貸間広告やアルバイトビラなら苦笑してすますものが、選挙ビラ、政治ビラ、思想ビラでは許し難いとする心情は人の常としてこれを容認すべきである。自己が承諾しないときは、その工作物にビラを貼付されないということは、平穏な社会生活を保持する為に、各人に認められるべき生活利益であり、このことは私人であっても法人であっても異ならない。この場合、如何程の財産上の損害があったかは重要な問題ではない。この生活利益を保護し社会秩序を保持すべく、みだりになしたビラ貼り行為に刑責を問うても、表現行為そのものを直接制約するものとはいい得ない。それは、表現方法として他人の名誉を害し、又は威迫し、若しくはワイセツ感を抱かせるような言葉を用いた場合に等しい。表現行為者はかゝる言葉を用いずして思想などの伝達に努めるべきであり、ビラ貼り行為者は媒体の所有者、管理者の承諾を得るように努め、その者の生活利益を尊重しながら自己の表現行為をなすべきである。憲法一二条は「国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」と定めている。憲法は表現の自由を保障した。しかし、表現の自由の名の下に他を睥睨するような行為は許さないのであって、表現の自由の価値を減殺するような放埓な心的状態は厳に抑制しなければならぬ。思慮の浅い独善的な表現行為は表現の自由の内部崩壊を招きかねない。さればこそ、憲法はその濫用を厳に戒しめているのである。表現行為に利用すべき媒体は表現を意義あらしめる為に重要視すべきものであるから、細心の注意を払ってこれを選び、安全に確保すべきであり、軽々に媒体利用の承諾が得られないであろうと想定し、或いはその媒体のみが唯一であるとし、次善の媒体の確保に努めずして、安易に、性急に、自己の思うまゝにビラ貼りを強行することは、独善的な行為というべく、憲法の保障する表現の自由を保持する為の不断の努力を欠くものというべきである。(東京高裁、昭和44・6・17高裁判例集22巻2号、同44・7・31高裁判例集22巻4号参照)

最高裁判所大法廷は「軽犯罪法一条三三号前段は、主として他人の家屋その他の工作物に関する財産権、管理権を保護するために、みだりにこれらの物にはり札をする行為を規制の対象としているものと解すべきところ、たとい思想を外部に発表するための手段であっても、その手段が他人の財産権、管理権を不当に害するごときものは、もとより許されないところであるといわなければならない。」(昭和45・6・17判例集24巻6号)とし、「みだりに、とは、他人の家屋その他の工作物にはり札をするにつき、社会通念上正当な理由があると認められない場合を指称するものと解するのが相当である」と判示した。又東京高等裁判所は「軽犯罪法一条三三号に、みだりに他人の工作物等にはり札をするというのは、他人の占有する工作物等にその他人の承諾を得ることなく、かつ社会通念上是認し得るような理由もなくして、はり札をすることと解される」「もともと軽犯罪法がその取締対象としている行為は刑法その他の刑罰法規に違反する重大な法益を侵害する行為ではなく、人の日常生活において、そのまま放置すれば、より重大な法益の侵害に発展する虞れのあるような行為、人に嫌悪の情を懐かせるような行為、人に迷惑を覚えしめるような行為等であって、同法はこのような行為を禁止し、その違反者を処罰することにより社会生活を秩序立てようとするものであり、民主社会における公共の福祉を保持することを目的とするものというべきである」と判示した。(昭和40・12・22下級判例集7巻12号)当裁判所も同旨に解するものであるが、本件においては、社会通念上正当として容認すべき事情は認められないのである。

二、弁護人は多くのビラが他の電柱に貼られている事実を指摘し、被告人らの本件行為は許さるべきものと主張する。

本件附近やその他東京都内の一部の電柱に種々なビラが貼付され、排除されることもなく風雨にさらされていることは被告人らの供述やその撮影した写真をまつまでもなく、顕著な事実である。しかし、これらのことで、管理者である東電広告株式会社において、迷惑を感じ、都市の美観を損ねるものとして憂いていることは≪証拠省略≫により認められるところである。

前記東京高裁判決は「ビラ貼りは、これを貼られた電柱の所有者であり管理者である東京電力株式会社にとり迷惑なことであり、しかも街の美観を損ない従って不快を感ぜしめる以上、これをもって社会通念上是認されるべき理由のある行為とはいい難く、みだりにはり札をしたといわなければならない。」「指摘の写真は多数の広告ビラ類が乱雑に貼られている情況を示しているが、事実上、他にも同種の違反行為が多数存在するということが当然に市民権を得ているとか、社会的相当性を有しているとかいうことにはならない」「現実に多数のビラが貼られている事実が直ちに、社会的相当性を取得する理由にならないこと、及び東京電力株式会社が電柱えのビラ貼りに迷惑していることは前示のとおりである。表現の自由は憲法上保障された基本的人権であるが、同時に憲法は、国民はこの自由及び権利を濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のために利用する責任を負う、と定めているのである。表現の自由を振りかざして、自己の思想表現のためには、その採った手段が他人の迷惑になっても已むを得ないとする思考はおよそ民主主義とは相容れない。民主主義は先づ隣人に迷惑をかけないことから始まることを思うべきである」と判示している。当裁判所もその趣旨に同調するものであり、被告人等の行為は違法たるを免れない。

量刑についての判断

検察官は被告人等を各科料三千円に処すべきであるとの意見を開陳した。

本件と同種、類似の被告事件につき前記東京高裁判決は「本件当時同方面において街路の電柱に種々雑多なビラ類が貼られ、その中には警察署、交通安全対策協議会名義のビラもあったことが認められるから、そのような実情のなかで、独り被告人等のビラ貼り行為のみが取り上げられて訴追されるに至ったことは、犯行中を現認されたにせよ、被告人等としては不公平な処分を受けたと感じ、ビラ貼り行為の取締に仮託してビラに表現された思想を目標とする取締を受けたと憶測することも、あながち無理からぬものがあるといわなければならない」「本件に対する措置としては将来を戒めることで足り、敢えて刑を科する必要は存しないと判断される」と説示している。その摘示の事情は本件に類似している。

近時街路上の電柱に貼られたビラ類はまことに雑多で、時には選挙運動やその事前運動と目されるものもあり、或いは風俗犯やその他犯罪の手段的ないかがわしいものもあるが、中には放置的状況下に残存するものもあり、又国鉄関係の施設や車両には時折数限りなくビラが貼られ、車両はそのまゝ列車を編成して走行し、あたかも公認されているが如き状況である。このようにビラ貼り行為の違法についての意識を低下せしめるような客観状況の下では、被告人等のみを強く責めることは衡平観念上妥当ではないと思われるのであるが、被告人等は検挙当日より素直に事実を述べ、司法警察員に対する供述調書ではその非を認めて今後は慎み度いとも述べているのであって、その情は酌むべきものがある。その後において被告人等の態度に変化があった理由が奈辺にあるや窺知し得ないが、本法廷における態度などより勘案すれば、敢えて刑を科する必要はないものと判断すべきである。

法令の適用

各被告人につき、軽犯罪法一条三三号前段、二条、刑法六〇条

(裁判官 津田正良)

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